高梨小鳥は高梨鳥居の五つ年下の妹である。
おっとりとした癒し系の顔立ちであるが、運動が別段出来ないというわけでもない。
背はそれほど高くなく、しかし出るところはそれとなく出ているというある種の萌え要素満載であると言える。
「もう、お兄ちゃんってば!」と言う小鳥の声は、小さな風鈴が風に揺られるように涼やかで可愛い。
街を歩けば、十人中九人は抱きつくであろう。
残りの抱きつかなかった一人は、女性に興味のない人間であると断言できる。
つまり、小鳥はそれほどまでに魅力的な少女なのである。
――そう、鳥居は半ば本気で思っている。

――コートでも羽織って来ればよかった。
カラカラと落ち葉がアスファルトを駆け抜ける音。
見上げた空は雲ひとつ無く、どこまでも高い。
飛行機が青色のキャンバスに白線を描くように雲を引く。
『空高く、馬肥ゆる秋』とはよく言ったものだと鳥居は思った。

ついさっき自販機で買ったホットの缶コーヒーは既に温くなっていて、どうしようもなく邪魔くさい。
カイロか何か暖を取れるようなものとして買ったのに、ここまで早く冷めるとは思いもよらなかった。
一気に缶の中身を呷って、一瞥するまでもなく自販機横に設置されたゴミ箱へと投げる。
平坦な放物線を描いて空き缶はカラン、と小さな音を立てながらゴミ箱に吸い込まれてく。
鳥居は冷たくなった手を口元で擦り合わせた。
霧のような吐息が、ほんの少しだけ赤らんだ指を暖める。
――手袋も持ってくればよかった。……何もかも準備不足だ。

鳥居は、重度のシスターコンプレックスである。
小鳥がどこかに出掛けようとするならば、鳥居は変装までして後をつける徹底振り。
何か事件(主に男関係)が小鳥に起こらないように監視する意味を含んでいる。
ちなみに今回の変装のテーマは『とくにやることも無く街に出てきた冴えない男』である。
全体的に茶系の服装であり、ダサい帽子を被って黒縁眼鏡をかけた姿。
今までに何度か犯罪紛いな行為に手を出したこともあったが、幸か不幸か警察沙汰になることはなかった。
全ては小鳥を思う故、なのだ。
しかし、シスコンもここまで来れば立派な病気であると言える。

そんな鳥居が小鳥が出掛けることに直前になるまで気付けなかった。
三日前から準備を始める男であるのにも関わらず。
小鳥も小鳥で、鳥居に気付かれないように出掛けていた節があった。
それも今に至ってようやく考え付いたことであり、何もかも手遅れ感が否めなかった。
だから、こういった準備不足に陥ってしまったのだ。
慌てふためきながらもなんとか小鳥の後をついていき、そうして現在に至るわけである。
最終的には金銭面に頼った手段を用いることも辞さない覚悟だが、もう少し我慢してみようと鳥居は思った。

隠れているからといってコソコソとするのは得策でない。
変装までしているのだから、小鳥には一瞥されたくらいでは気付かれない。
だから、堂々と小鳥の後を少し遅れてついていけばよいのだ。
前方をそれとなく見遣れば、小鳥が時折立ち止まりながらウィンドウの中の品物を見つめている。
歩く度に風に揺らめく丈の長い小鳥のスカートは、水中を優雅に泳ぐ熱帯魚を思わせる。
小鳥が歩き去ってワンテンポ遅れて鳥居も横目にウィンドウの中を見る。
その間も小鳥から視界の中に捉えたままだ。
ウィンドウの中には小さなオルゴールが飾ってある。
濃い木目模様の浮いた小さな箱の中に、歯車やゼンマイがぴったりと噛み合っている。
いかにもこういった小物は小鳥の好きそうなものである。
鳥居は、小鳥にいずれプレゼントする候補として頭の中のメモに書き留めておく。
小鳥を喜ばす為の地道な下準備(リサーチ)である。

○○市の中心には時計塔がある。
渋谷なんかのハチ公と同じように待ち合わせ場所として有名なのだが、時計“塔”というほど立派なものでなく、せいぜいが三階立てのレンガ張りの建築物である。
札幌の時計塔と同じように、その威容に期待しているとガクリと肩が落ちる代物だ。
そんな時計塔の下に小鳥の姿があった。
誰かを待っているようである。
左手にした腕時計を見て、少し溜息を吐いたようだ。
時間にして午後二時過ぎである。
まさか、中途半端に二時一四分になんて待ち合わせをしているはずなどなく、どうやら小鳥の待ち人は待ち合わせ時間に遅れているらしい。
――待ち人というのは、男ではないのか。
唐突に、そんな不吉な考えが鳥居の脳裡を過ぎった。
そもそも、小鳥の出掛けた目的も分からないのだ。
男とのデート、そういう考えも捨てきれない。
不吉な考えというのはいくら考えまいとしても、思考を侵食していく。
その侵食はどうやっても止められず、鳥居の頭は小鳥の待ち人のことで容量限界に達して軽く処理落ちをし始めていた。

五分が経った。
小鳥に動きがあった。
ここだ、と示すように爪先立ちながら手を振り始める。
小鳥の視線の先には果たして――、一人の少女がいた。
ショートカットの髪、青と赤がアクセントになった白色のパーカー、デニムパンツにパーカーと同じような色のスニーカー。
デニムパンツの裾から覗く足首は細く、血色のよい肌色をしている。
一見してみれば少年と見間違えるだろうが、鳥居はその少女のことを知っていた。
本野雪。小鳥の親友である。
雪は、小鳥の前に走ってきて目前で手刀を切る。
小鳥は腰に手を当てて雪のことを怒っていたようだが、それもすぐに雪の汗を拭ってやる仕草に変わった。
こんな季節に汗をかくとは雪は相当に走ってきたのだろう。
軽く頬が朱色に染まりつつある。
くすぐったがるように小鳥のハンカチに汗を拭われるまま、雪は小鳥と笑いあっている。
その光景を見て、鳥居は安心していた。
――小鳥の待ち人は男ではなかった。
男だったらどうしていただろう、と考える。
たぶん、殴り込みに行っていたかも知れない。
もしかしたらその場で泣き崩れていたかも知れない、とそこまで考えてそれらを考えること自体が無意味であることに気付く。
小鳥にそんじょそこらのぼんくら男などが近づけるわけがないのだ。
全力で自分が阻止してしまうのだから。
鳥居は苦笑の混じった溜息を吐いた。
小さな白いもやとなって、それは空高く舞い上がり拡散する。
気が緩んだ、と言ってもよい。
ピンと張り詰めていた弦がプツリと予想外なところで切れたのに似ている。
だから、年末近い雑踏に二人が消えていくのを鳥居は見逃していた。
気付いたときには既に遅く、鳥居は小鳥を見失ってしまった。

鳥居は焦っていた。
変装のことなど忘れて、その焦りようは尾行のものでない。
そもそも、尾行する相手を見失ってしまったのだから尾行ですらない。
時計塔の下、小鳥のいた場所へと走っていくが影も形も無い。
○○市は小さな街ではあるが、それでも一人の人を探し出すとなると不可能に近いことになる。
むしろ、宝くじで一等を引き当てることの方が、確率的には同程度としても労働力的には軽く収まるというものだ。
こうなれば、ヤマを張ってどこかで待ち伏せていた方が効率が良いのかも知れない。
――ああ、ったく。クソ!
鳥居は内心、悪態を吐き出した。
万が一にも、小鳥の身に何かあったら自分のせいなのだ、と思い込んでいる鳥居である。
今でこそ雪と一緒に行動をしているはずだから少しは安心だが、それでもいずれは無きにしも在らずなのである。
いち早く小鳥を見つけるに越したことは無い。
時間は刻一刻と経っていて、鳥居は依然として時計塔の下で待ちぼうけしている。
いくら時計の文字盤を睨んでも、時間が戻ることはない。
時間というものは一方向に流れていく河のようなものだ。
それは誰にでも等しく時を刻んでいく。
各々人で違う部分があるのは、その等しく進む時間をいかにして有効に使うか否か、その点だろう。
何か今の小鳥の状況を聞きだせる方法はないか。
そこまで考えてようやく鳥居は携帯電話の存在に気付く。
小鳥に直接電話で今どこにいるのかを聞き出せばいいのだ。
なんでこんな単純なことに気付かなかったのか。
それは鳥居自身、かなり焦っていたせいなのかも知れないし、もしかしたらこの寒さに因る思考回路の凍結なのかも知れない。
確率的には前者が圧倒的であるが、今の鳥居には取るに足らない些事である。
電話帳から小鳥の携帯番号を呼び出す。
四コール目で繋がったようなブツリというノイズが通話口に走った。
「もしもし、お兄ちゃん? どうしたの?」
ここで小鳥に何かを悟られては台無しだ。極々自然に聞き出せ、と自分に言い聞かせる。
「ああ、家に小鳥の姿が見当たらなかったから心配になってさ。今、街にいるの?」
「うん、少し、ね」
歯切れの悪い小鳥の返答。
通話口の向こうで雪が「どうしたって?」と小鳥に聞いているのが微かに聞こえた。
「何か買い物?」
「そうだけど……。どうしたの、急に」
小鳥が訝しげに聞き返す。
「いや、とくに何もないんだけど――」
もうこれ以上踏み込めば何かしら勘付かれる。
小鳥は気付かないにしても雪が気付くことになるだろう。
鳥居はここが引き際であると判断して、
「まあ、帰りが遅くなるようだったら連絡しろよ。迎えぐらいいつでも行ってやるからな」
「うん、わかった。それじゃあね、お兄ちゃん」
通話口の遠く向こうで「心配し過ぎなんだよ」と雪が呟いたのが聞こえる。
確かに、そうなのかも知れないな……。

電話が切れて、鳥居はこれからどうしようかと空を仰いだ。
空は呆れるくらいに青色で、まるで悩みなどひとつもないように、どこまでも高く、広い。


小鳥が帰ってきたのは、午後六時になる直前だった。
時計の長針が戸惑っているかのように、十二の文字盤の手前で止まっているように見える。
鳥居が玄関まで出迎えると、珍しく雪も一緒である。
「何か文句でもあるの?」
あまりに予想していなかったことなので、いきなりの喧嘩腰トークである雪にたじろんでしまう。
「……いや、何も文句はないが」
何故に? という視線を小鳥に送ると、小鳥は小さく首を傾げた。
視線の意味が伝わらなかったのは残念だが、小鳥のその仕草が可愛かったのでよしとする。
「ほら、こんな玄関じゃ寒いでしょ。早く部屋に入りなさいよ」
雪は急かすように鳥居の背中を押してリビングへと追いやる。
それが雪の照れ隠しであるのを知らないままに、鳥居は流されていく。
雪たちの後に続いて小鳥もリビングに入ってくる。
そこで鳥居は、小鳥の手に小さな紙袋が提げられていることに気付いた。
雪も種類は違うが同じような紙袋を提げている。
とりあえず、リビングの中心にあるコタツに三者三様に足を突っ込む。
「もうちょっとコタツ強くしてー」
これは雪の言葉。図々しい。
「まだ時期的には秋だろうに、寒くなったよね」
行儀良くコタツに浸かる小鳥。
「今年は早くから雪でも降りそうだな」
“雪”という部分にピクリと本野“雪”が反応する。
「勿論、お前のことじゃないぞ、本野雪」
一応釘を刺しておく。
「そんなこと知ってるっての」
はぶてたようにペタリとコタツ机に頬をくっつける雪。
いつにも増して丸い雪の態度に鳥居は苦笑する。
「そういや、小鳥たちって何か買い物に行ってたんだっけ。何買ってきたんだ?」
鳥居は小鳥たちがコタツ机の上に置いた、二つの紙袋を指差す。
形状からして、そこまで大きなものでもなさそうに見える。
小鳥と雪は待っていましたとでも言うかのように見詰め合い、
「今日は何の日か覚えてる?」
小鳥が悪戯っぽく笑いながら聞いてくる。
今日は、何かの記念日だっただろうか。
祝日であったわけではないし、何かしら特別な行事がある日でもない。
鳥居は難しそうな顔で腕を組む。
しかし、一向に答えは出てこない。
「今日って……、何かあったっけ?」
そんな鳥居の言葉に、
「ほらー、あたしの言ったとおりじゃない。どうせ忘れてるから黙ってれば大丈夫だって」
「えー、でもでも、私はちゃんと覚えてたし、それに雪ちゃんもでしょ」
「いや、それはそうだけどさー」
雪は頭を掻きながら、
「なんか今更ながら、そのー、は、恥ずかしいというか……」
言葉尻にすぼんでいく。
話が一向に見えてこない鳥居は、二人のやりとりを見つめるばかりだ。
一人だけ蚊帳の外の気分である。
いや、季節的にはコタツの外なのかも知れない、と無意味に鳥居の思考が飛躍する。
「んがー、もういいじゃんか、小鳥。早く渡しちゃおう!」
言って雪は紙袋のひとつから綺麗にラッピングされた箱を取り出した。
赤色のリボンが薔薇のように折り重なっていてファンシーだ。
「はい、小鳥から渡してあげて」
半ば押し付けるように、そのリボン付きの箱を小鳥に渡す雪の顔はうつむきがちだったが笑っているようにも見えた。
「もう、雪ちゃんてば」
苦笑しながらも小鳥は鳥居に向き直って、
「はい、これ」
その小さな箱を鳥居に差し出した。
「誕生日おめでとう」
「あえ?」
鳥居は驚きに声が裏返り奇声を発してしまう。
――誕生日? 自分の?
箱を受け取りながらもどこか夢心地で、本当に現実なのかが判然としない。
全ての音が遠くに聞こえて、目頭が熱くなる。
ひとつ呼吸するのにも一苦労で、若干の呼吸困難に陥りそうだったのはなんとか気合で押し止める。
「まさか、夢?」
「確かめてあげようか?」
雪がここぞとばかりに何か摘むような仕草をしながら近付いてくる。
「いや、やらなくていい」
もし、本当に夢ならば、ずっと覚めないで欲しいから。
「えっとあの、開けてもいいんだよ、な?」
戸惑いながらもなんとか言葉を紡ぎ出す。
声が上擦っているのはまだ動揺しているからだ、と鳥居は思い込むことにした。
「うん」
小鳥が頷く。
赤色のリボンを解く。
薔薇のような飾りは後からテープで付けられたものらしく、包装紙が一緒に剥がれないように手付きが真剣になる。
リボンを解き終わると次いで、花の冠のようなイラストがプリントされた包装紙を破らないように慎重に開いていく。
全てを開き終わると中には小さな白い箱が入っていて、蓋を開けるとそこには緩衝材としてのシュレッダーにかけられたような紙屑と、濃い木目模様の浮き出たオルゴール。

全身が震えた。

「あーあーあー、だめだ。だめだ、そんなの。卑怯過ぎりゅ」
鳥居は片腕で小鳥たちを制止するようにしながら、もう片腕で顔を隠す。
男として兄として、こんな顔を晒すのは格好悪すぎる。
「あら? 泣いてんの?」
雪が悪戯っぽく聞いてくる。
「な、泣いてなんかないやい」
勿論、嘘だった。
――涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔なんて、小鳥なんかに見せられるわけがないじゃないか。
ちょっと不意打ちを喰らっただけで、そう、これはあれだ。その、あれだよあれ。
「もう、こんなことで泣かないでよ。お兄ちゃんったら」
小鳥は笑いながら背中を撫でてくる。
小さくて細い小鳥の手から、暖かな感触がじんわりと背中に染み込んでくる。
それがまたいけなかった。
折角少し落ち着いてきたところにこれなのだ。
これこそまさに“不意打ち”で、ついには鳥居は小さく声を漏らして泣いてしまった。
「高梨兄はほっときなよ。それより小鳥、ケーキ食べちゃおう」
雪のその能天気さは、今となってはありがたかった。
多分、雪なりに気を遣ってくれたのだと思う。
それでも小鳥は鳥居の背中をさすり続ける。

コタツを囲って、二十一歳になりたての男が泣いている。
その妹は自身の兄の背中をさすり、妹の親友はその光景を見て笑う。
その光景自体が、幸せなのだ。
鳥居はそう、思い込むことにした。そして、今もそう思っている。


秋が終わり、冬が来て。
冬が終わると、春が来る――。



fin